だるかぶ
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初夏を思わせる五月晴れの素晴らしいお天気の中、愛媛県新居浜市の「マイントピア別子」を華麗にスルー(笑)し、さらに山深くへと分け入る「東平(とうなる)地区」まで、相棒のスーパーカブを走らせてきました。
別子銅山・東平(とうなる)地区とは?
まずは、今回巡る「別子銅山」と「東平地区」の歴史的背景について少し詳しくおさらいしておきましょう。

▲ 東洋のマチュピチュ
別子銅山は元禄4年(1691年)に開坑され、平成5年(1993年)に閉山するまでの約300年間にわたり、日本の銅生産の大きな割合を支え、住友グループの発展の基礎となりました。その採掘拠点は標高の高い山奥へと移動していき、明治から昭和にかけて中心となったのがこの東平地区です。

▲ 階段状の社宅(模型)
東平にはかつて、採掘された鉱石を貯蔵する貯鉱庫や、人や物資を運ぶインクライン(傾斜鉄道)の巻き上げ機などが設置されていました。当時、最盛期には約3700人が暮らしており、小学校や社宅、娯楽施設まで完備された一大山岳都市でした。現在見られる巨大な石垣やコンクリートの構造物は、まさにその当時の最先端技術の結晶です。
スーパーカブで駆け上がる新緑の山道と、安心の走行ルート
新居浜市の市街地から別子銅山方面を目指します。麓からすでに山が迫っており、マイントピア別子の周辺を抜けると、山道(愛媛県道47号新居浜別子山線など)へと入っていきます。
カブと新緑のコントラスト

▲ 新緑が美しい山道をスーパーカブで進む。
山道に入ると、市街地とは打って変わって空気はひんやりと澄み渡り、木々の間から差し込む木漏れ日がカブの車体を美しく照らし出します。排気量が小さく、小回りが利くスーパーカブは、このようなタイトなワインディングロードをのんびりと楽しむには最適な乗り物です。常時2速でエンジン音を響かせながら、ゆっくりと標高を上げていきます。
スタッフさんの温かい誘導
東平へ続く道路は、対向車とのすれ違いが難しい箇所もある狭いワインディングです。しかし、現地ではスタッフの方々が無線機を使い、交通整理や離合の誘導を行ってくださっていました。

▲ スタッフさん、ありがとう!
このようなサポートがあるため、初心者や小さなバイクでも安心して山道を楽しむことができます。スタッフの方に感謝しつつ、慎重にカーブをクリアしていきました。

▲ 離合場所の目印

▲ 待機場所
いざ、天空の産業遺産「東平(とうなる)」ゾーンへ!
いよいよ、標高約750メートルの山中に位置する東平ゾーンへと向かいます。

駐車場にカブを停め、遊歩道に足を踏み入れると、そこには別世界が待っていました。

▲ 東平地区に到着。新緑の山々に囲まれた広大な風景。
見渡す限りの緑と高い青空。空気は非常に澄んでおり、山の風が吹き抜けます。

▲ 案内図がありました。
マイン工房(保安本部跡)
最初は、マイン工房(保安本部跡)に向かいました。

保安本部跡
明治35年(1902)頃に第三通洞の開鑿(かいさく)や電車用の変電所として設置された。
その後、林業課の事務所になりその隣が電話交換所となった。
明治38年(1905)頃から消防部門や警備部門を担当した保安本部として使用するようになった。
時代とともに建物の一部は、坑内作業者の入出勤を確認する就労調所として使用された。昭和26年(1951)頃からはキャップランプの充電場として使用された。その後、端出場調査課の東平分室として昭和32年(1957)頃まで使用された。第三変電所の建物とともに、東平地区ではめずらしいレンガ造りの建物である。
現在、銅板レリーフが体験できる「マイン工房」として活用している。

▲ この階段は産業遺産のため利用不可


階段奥のスロープを進みます。

マイン工房の正面

側面

こちらが正面?

奥に勝手口がありました。

中は現代風です。
東平接待館跡


採鉱拠点が徐々に嶺南の旧別子から嶺北の東平に移行していくのに伴い、住友関係の要人や著名人が訪れ、会食をしたり、宿泊する場所として、明治42年(1909)に、東平接待館が建設された。
東平の地名にちなんで「東平荘」と命名された。東平荘は立派な門構えの施設で、建築材には檜、桜、栂、欅などが使われていた。屋根は雪がすべり落ちやすいようトタン葺きであった。
部屋数は10畳ほどの広い部屋が4室、6畳の日本間が6室、会食をする20畳の大広間が1室あった。昭和15年(1940)頃には、暖房設備が完備した20畳ほどの洋間が増設された。
東平荘へは、土井晩翠、川田順、山口誓子などの歌人も宿泊している。
「荒城の月」の作詞者の土井晩翠が、昭和11年に東平接待館で詠んだ歌。
「東平の 山ふところに 石楠の 花ながめつつ 鶯を聞く」
娯楽場跡・病院跡

娯楽場跡・病院跡への入口

病院跡

当時の写真

結構広かったようです。

病院の外壁跡

こちらは配給所跡
インクライン跡

インクライン跡
大正5年(1916)頃、東平·端出場索道の物資運搬の接続施設として、東平工場中心地・電車ホームと索道基地との間に、斜長95m、仰角21度でインクラインが設置された。
動力は電気巻上げであった。複線の斜路は連動していて、片方が上がれば片方が下がる仕組みになっており、必要な物資や生活品などが引き上げられ、坑木などが引き下ろされていた。
インクライン跡の傾斜を利用して、平成6年(1994)のマイントピア別子·東平ゾーンの整備時に220段の長大階段が作られた。
インクラインは、明治37年(1904)に完成した四阪島製錬所や、大正14年(1925)に完成した新居浜選鉱場でも上部への鉱石等の運搬手段として設置されている。


階段なげぇよw

階段を降りると貯鉱庫・索道基地跡へ行けます。
索道基地跡






索道基地跡
明治26年(1893)から鉱石の運搬経路は、上部鉄道と石ケ山丈~端出場間の索道を経由して下部鉄道に搬出されていたが、明治35年(1902)、第三通洞(東平坑口~東延斜坑底間)の開通に伴い、輸送路の充実を図るために明治38年(1905)に東平~黒石駅間停車場(3,575m)にドイツ人の索道技師ブライヘルトにより自動複式索道が設置された。途中、新道と六号の2箇所に中継所が設置され、押し出し作業による中継ぎがされていた。新道の中継所跡のレンガ造りの建物は今も残っている。その後、昭和10年(1935)には距離を短縮して東平~端出場間(2,717m)とした。東平~端出場間の索道には、26基の支柱が立ち、80器ほどの搬器が吊るされて分速150mで回転していた。同年に太平坑~東平間(1,312m)の索道が完成し、嶺北に搬出された鉱石も東平の索道基地に下りていた。索道では鉱石を輸送するだけでなく、物資、生活品、木材なども輸送していた。


社宅跡
社宅跡に下りてみました。











もう一段下にも基礎が残ってた。


上の社宅跡を見上げる。
東平貯鉱庫·選鉱場跡

東平貯鉱庫·選鉱場跡
明治35年(1902)に第三通洞が貫通し、明治38年(1905)に東平の中央に新選鉱場が、東平~黒石駅間に索道が、新選鉱場から第三通洞を経て東延斜坑底に
連絡する電気鉄道がそれぞれ完成した。大正5年(1916)には、採鉱本部が東延から東平(第三地区)に移転して、東平が採鉱拠点となる。
第三通洞から搬出された鉱石は、大マンプ、福井橋、小マンプを通って終点の新選鉱場に運ばれた。鉱石と岩石とに選別された鉱石は貯鉱庫に貯められ、順次索道で黒石駅へ下ろされた。後には距離を短縮して黒石駅から端出場へと変更して下ろされ、四阪島製錬所に運ばれた。


新選鉱場


駐車場から貯鉱庫を見下ろす
一旦、駐車場に戻ってきました。




マイントピア別子·東平ゾーン
別子銅山の歴史は、元禄3年(1690)、赤石山系の銅山峰南斜面で露頭が発見されたことに始まります。
翌年から住友により採掘が開始され、昭和48年(1973)の閉山までの283年間で、坑道の総延長は約700キロメートル、採鉱場所は海面下約1,000
メートル、総出鉱量は約3,000万トン、産銅量は約65万トンに達しました。
山頂から掘り続けられた別子銅山はしだいに中心地を下へ下へ移していきました。
ここ東平(とうなる)は、標高750メートル前後の山中にあり、大正5年(1916)から昭和5年(1930)まで別子銅山の採鉱本部が置かれた場所です。東平
地域には銅山関連施設や生活関連施設が整備され、最盛期には5,000人余りもの銅山関係者とその家族が住み、山の町として賑わっていました。
昭和43年(1968)に東平坑が休止され、無人の地となり、山々も緑に還りましたが、今なお残る産業遺産に当時を偲ぶことができます。








東平歴史資料館
開館時間 10:00 ~ 16:30。入場無料です。
私はめちゃくちゃな順番で回りましたが、まず、東平地区の概要や歴史を理解してから後のスポットを見学すると分かりやすいと思います。


桜が咲き乱れる春の東平地域

水樹奈々さんや、科捜研の女のロケにも!



東平地域立体模型
娯楽場
5月の山神祭の3日間、東平は祭りー色に包まれました。その主な舞台が、明治45年に建築された娯楽場でした。
ここでの上方歌舞伎は圧巻で、役者たちは山かごに乗って東平に来ました。回り舞台があり桝(ます)席や花道もあった本格的なものでした。
戦後は、映画の上映や楽団による演奏会、ダンスの練習、集会などに使われました。
入口の橋や桜は今も、往時を偲(しの)ばせています。



社宅
東平の住宅は、そのほとんどが社宅でした。
これは明治30年代末頃に建築した呉木の社宅で、第三通洞が開通した後の東平地区では最も古いもののひとつです。冬の雪に備え屋根はトタンでした。
鍵もかけず、無料の共同浴場や共同水場もあり、これが社宅内を家族的な雰囲気にしていました。
山中だっただけに火事には細心の注意を払っていました。


小学校
この学校の60余年間は、東平の盛衰をそのまま映し出しています。
明治39年、私立住友東平尋常高等小学校として児童20人で開校し、昭和2年には695人を数えました。昭和36年に新居浜市へ移管され、昭和43年3月東平坑休止にともない閉校となりました。
私立時代は先生も「社員」でした。戦後は、剣道、卓球、コーラスなどに
優秀な成績を残しています。
厳冬のため、冬休みの方が夏休みより長かったそうです。この学校の跡地は、現在、銅山の里「自然の家」となっています。



その他、東平地域で使用された小物など


資料館を出たら、すぐ横の鉱山運搬機器展示場に進みます。
小マンプ(鉱山運搬機器展示場)

この看板がなかったら存在を見逃すところでした。

ちょっと読みづらかったので、下記に書き起こしました。
東平にゆかりのある鉱山運搬機展示場
東平は、標高750m前後に位置し、大正5年(1916)から昭和5年(1930)まで別子銅山の採鉱本部が置かれた地域で、最盛期には5,000人に近い人々が暮らしていた「鉱山の町」でした。
明治35年(1902)に東平·東延斜坑底を結ぶ「第三通洞」、明治44年(1911)に東延斜坑底·日浦を結ぶ「日浦通洞」が貫通し、この路線を走る電車により新居浜地域(東平)と別子山地域(日浦)が結ばれるなど、東平は、別子銅山に係る交通輸送の重要な拠点でもありました。
昭和43年(1968)の東平坑終掘に伴い、東平は 一時廃墟と化し無人の地となりましたが、昭和63年(1988)の「銅山の里自然の家」や平成6年(1994)の「東平記念館」の建設により、今、再び注目されるようになってきました。
ここに保存·展示しております「かご電車」などは、住友金属鉱山株式会社別子事業所のご好意により寄贈を受けたものです。
鉱山の町として栄えていた東平の華やかな時代を偲ぶ貴重な資料を、
平成15年4月1日、新居浜市と宇摩郡別子山村が合併し、新生·新居浜市が誕生したことを記念し、整備しました。
写真撮影 日和佐 初太郎
平成16年3月 新居浜市

上から冷たい水の雫が落ちてきてヒヤッとなる(笑)

以下、説明パネルとセットで撮影しているので、拡大してご覧ください。

内部が狭そうなかご電車。無料で乗れたようです。




ローダー全景です。






トンネルの反対側に抜けました!
第三通洞・変電所跡への道
小マンプを見学した後は、第三通洞・変電所跡方面へ向かいます。

こんな感じの小道をテクテク。

第二駐車場。ここまで車で来れるんか~いw

まだ進みます。

ココが「渓谷遊歩道」

マイナスイオンたっぷりの小道を進みます。


パッと開けた広場に出ました!
大マンプ
マンプって何だろう?と思って調べてみると「トンネル」の事でした。


火薬庫跡

奥に見えるのが「火薬庫跡」

訪問時は水浸しで入れませんでした。
第三通洞

第三通洞(標高744m)
第三通洞は東延(とうえん)斜坑の下底部にあった三角(みすま)という別子鉱床の富鉱部を狙って明治27年(1894)に開削に着手した多目的坑道である。同35年に完成したことにより、坑内水の排出と通気問題が一挙に解決し、出鉱量も飛躍的に増加していった。更に、明治44年に別子山側に日浦通洞が貫けたことにより、東平(とうなる)と別子山日浦が全長3,990mのトンネルで結ばれ、別子鉱山の北と南を結ぶ動脈となった。更に鉱山では籠電車という鳥籠の様な人車を連結して一般にも開放したので、利用者が多くて特別に人車を増結することもあった。昭和48年、その籠電車も別子鉱山の終掘と同時に廃止された。



中ではトンネルを埋める工事をしてる?


すぐ隣には渓流がありました。
旧第三変電所

第三と変電所
元禄15年(1702)から別子銅山の粗銅(あらがね)は銅山越経由で新居浜へ運び出すようになり、その中持(なかもち)道はこの辺りを通っていた。第三坑口の前あたりには橋があって、「上の橋」または「蘭干橋」と呼んでいた。辺りは深い渓谷であったが、100mにも及ぶ暗渠(あんきょ)を築き、右の寛永谷と左の柳谷の流水を伏流させ、第三通洞の開削ズリを堆積して、通称第三広場と呼ばれている鉱業用地を造成した。
以後、しばらくはここが東平(とうなる)地区の開発と生産活動の拠点となり、大正5年には別子の採鉱本部をここに遷(うつ)した。昭和5年端出場(はでば)に移転するまでの14年間はここが鉱山の本部であった。
煉瓦の建物は東平変電所の遺構で、明治36年頃設置された開閉所を大正6年
頃に変電所の機能を備えた煉瓦の建物とした。尚、その下段には坑水を処理する流水沈澱槽が設置されていた。






実は中に入れます。

廃墟ファンの方、お待たせしましたw





階段がボロくて二階に行けなかった。
展望広場
案内板にあった「展望広場」に行く方法が分からずスタッフさんに聞くと丁寧に教えてくれました。

マイン工房を奥へ進む。

遊歩道を進んで階段を降りると…

展望広場に到着!

下の景色がよく見える!

お目当ては無料の双眼鏡!

おぉ!すごい倍率!

ネジまではっきり見える!
まとめ
今回は、愛媛県新居浜市にある別子銅山と、その山岳都市・東平地区の様子をたっぷりとご紹介しました。 麓から山頂の東平地区へのスーパーカブでのツーリングは、五月の心地よい風を感じながら、日本の産業の歴史の重みに触れる非常に贅沢な一日となりました。
巨大な石垣や、山中に残る赤レンガの建築物は、かつてこの地が日本の近代化を力強く牽引していたことを今に伝える生きた証です。皆さんも新居浜市を訪れる機会があれば、ぜひスーパーカブやバイクで、この天空の産業遺産を巡る旅を体験してみてください。
下記は参考ページです。
現場からは以上です。それでは、またッ!!!
だるかぶ

